katosvanidze18851907’s diary

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東アジア反日武装戦線の大道寺将司死刑囚が病死したが、(連続企業爆破事件の) 大道寺将司の(活動家、テロリスト)としての 利点欠点限界盲点とは 彼が歴史に与えた影響とは? 東アジア反日武装戦線の最後の一人で、 懸賞金300万の「桐島聡」はいつ捕まるのだろうか? そもそも警察は捕まる事が出来るのだろうか?

東アジア反日武装戦線の大道寺将司死刑囚が病死したが、(連続企業爆破事件の)

大道寺将司の(活動家、テロリスト)としての

利点欠点限界盲点とは

彼が歴史に与えた影響とは?


皆さんにとって、

東アジア反日武装戦線、大道寺将司、

連続企業爆破事件とは?


東アジア反日武装戦線の最後の一人で、

懸賞金300万の「桐島聡」はいつ捕まるのだろうか?

そもそも警察は捕まる事が出来るのだろうか?


ニュースカテゴリー皆さんの

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https://www.google.co.jp/amp/www.sankei.com/affairs/amp/170524/afr1705240022-a.html

連続企業爆破事件、大道寺将司死刑囚が死亡


 2017.5.24 14:33


三菱重工ビル(右)で起きた爆弾テロでは乗用車はつぶれ、路上一面にガラスが散乱した=昭和49年8月30日、東京都千代田区丸の内

三菱重工ビル(右)で起きた爆弾テロでは乗用車はつぶれ、路上一面にガラスが散乱した=昭和49年8月30日、東京都千代田区丸の内

 昭和49年から50年にかけて「東アジア反日武装戦線」を名乗って東京・丸の内の三菱重工ビルを爆破するなどした「連続企業爆破事件」で死刑が確定していた大道寺将司死刑囚(68)が24日午前、収容先の東京拘置所で死亡したことが同日、関係者への取材で分かった。関係者によると、大道寺死刑囚は多発性骨髄腫のため、抗がん剤治療を受けていたが「どんどん体力が落ちていた」という。



 三菱重工事件では8人が死亡、376人が重軽傷を負った。過激派「東アジア反日武装戦線」の「狼」「大地の牙」「さそり」の3つのグループが犯行声明を出し、警視庁は9カ月に及ぶ内偵捜査の末、50年5月19日、リーダーの大道寺死刑囚ら8人の一斉逮捕に踏み切った。


https://www.google.co.jp/amp/www.jiji.com/jc/amp%3Fk%3D2017052400771


大道寺死刑囚が病死=連続企業爆破事件-東京拘置所

2017年05月24日16時22分



大道寺将司死刑囚

 法務省は24日、8人が死亡した1974年の三菱重工ビル爆破を含む連続企業爆破事件で殺人などの罪に問われ、死刑が確定した「東アジア反日武装戦線」の大道寺将司死刑囚(68)が同日午前、東京拘置所で多発性骨髄腫のため死亡したと発表した。2010年に病気が判明し、抗がん剤治療を受けていたという。


〔写真特集〕三菱重工ビル爆破事件



 確定判決によると、大道寺死刑囚は71~75年に計14件の爆破事件に関与。74年8月に東京・丸の内の三菱重工本社ビル前で爆弾を爆発させた事件では、8人が死亡、165人が重軽傷を負った。



時限爆弾による爆風で、ほとんどの窓ガラスが割れた東京・丸の内の三菱重工本社ビル=1974年8月30日、東京都千代田区

 一審東京地裁は79年、「犯罪史上例のない残虐、凶悪、卑劣な犯行」として死刑を言い渡し、東京高裁も被告側の控訴を棄却。最高裁が87年に上告を棄却し、死刑が確定した。

 その後、大道寺死刑囚は「爆弾の威力は予想を超えたもの」などとして再審請求したが、最高裁は08年に再審開始を認めない決定をしていた。(2017/05/24-16:22)


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/大道寺将司

大道寺 将司(だいどうじ まさし、1948年6月5日 - 2017年5月24日[1])は、日本の新左翼活動家、俳人東アジア反日武装戦線“狼”部隊のメンバーで、リーダー格の人物。

人物[編集]

北海道釧路市出身。小学生時代より、新聞を丹念に読み、スクラップ帳を作る父親や、北海道議会議員だった母親の義理の兄、そしてその息子で高校生ながらに60年安保反対運動の先頭に立っていた太田昌国らの影響から、政治への関心を持つようになる[2]中学校入学後は学区の中にアイヌ居住区が含まれていたため、多くのアイヌの同級生たちと交流する中で、その厳しい暮らしぶりや中学3年時でのアイヌに対する就職差別を目の当たりにし、問題意識を抱くようになった[3]

北海道釧路湖陵高等学校入学後はさまざまなデモに参加するようになる[4]。同高を卒業後、大阪外国語大学を受験。不合格となるが、そのまま大阪に残り[5]釜ヶ崎近辺での約一年間の生活を経て[6]早稲田大学受験を口実に上京。実際には試験は受けず、そのまま浪人生活を送りながら、高校の同級生らとさまざまなデモに参加。そのなかで高校の先輩たちが中心の社会主義研究会に参加するようになる。この研究会の意向で法政大学に同会の運動の足場を固めるべく、同大文学部史学科に入学[7]。入学当初は文学部の自治会を掌握していた社青同解放派と行動したが[8]セクトの上意下達の雰囲気に馴染めず、大学のクラスメイトだった片岡利明らと法政大学Lクラス闘争委員会を結成した。他学科の哲学科や国文科(現在の日本文学科)にも参加を呼びかけた結果、一時は百数十名にも膨れ上がったが、全共闘運動70年安保闘争の「敗北」とともに自然消滅する[9]。大学も中退[10]したが、闘争の継続の為に、片岡らLクラス闘争委員会のメンバー数人と共に研究会を結成。1970年7月7日に出された華僑青年闘争委員会新左翼各派に対する「決別宣言」に衝撃を受ける。このことをきっかけにこの「研究会」では、「日本帝国主義」がアジアで行ってきた「悪行」について集中的に学習し、過激な反日思想を醸成させていった[11]。そして北海道出身の大道寺にとってはアイヌへの贖罪意識があった[12]

ゲリラ闘争への転換を決意し、反日戦線結成前(1971年)の「興亜観音・殉国七士之碑爆破事件」、風雪の群像・北方文化研究施設爆破事件、1972年末東アジア反日武装戦線「狼」部隊結成。その後、お召し列車爆破未遂事件(虹作戦)及び三菱重工爆破事件を含む9件の「連続企業爆破事件」を起こす。三菱重工爆破事件では時限爆弾のペール缶を爆破現場に設置した。後に9件の爆破事件で起訴された。

裁判中、容易に自供に応じたことへの後悔の念と、初期の支援団体を率いていた「狼」のメンバー佐々木規夫の兄らに焚き付けられるように激しい獄中闘争・法廷闘争[13]を展開。その渦中において、日本赤軍が起こしたクアラルンプール事件ならびにダッカ日航機ハイジャック事件によって、「狼」のメンバーであった佐々木や大道寺あや子(高校の同級生で、東京での浪人時代からの活動仲間であり、将司の妻)および「大地の牙」メンバーであった浴田由紀子超法規的措置釈放・出国したが、しばらくして大道寺はこの釈放を日本赤軍に対して仲間を連れ去ったと不快感を示している[要出典]

最高裁において1987年3月24日死刑が確定した。

死刑が確定しながら執行されなかったのは、かつての「狼」メンバーであり、企業爆破に関与した佐々木および大道寺あや子が、日本赤軍が起こした2件のハイジャック事件(クアラルンプール事件・ダッカ日航機ハイジャック事件)の際、日本赤軍側の要求を呑んだ日本政府による超法規的措置として出獄し、海外において日本赤軍に合流後の消息が不明となっており、裁判が終了していないためとされる。

一方で獄中から、松下竜一中山千夏辺見庸らの知識人との交流の過程において、自身も文芸活動を開始。獄中で詠んだ句集『棺一基』は、2013年日本一行詩大賞の俳句部門を受賞した[14]

再審請求中であったが、2008年の最高裁で棄却された。

2017年5月24日多発性骨髄腫により収監中の東京拘置所で死去[1]


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/桐島聡

桐島 聡(きりしま さとし、1954年1月9日 - )は広島県出身の指名手配犯。アナーキズム新左翼活動家。東アジア反日武装戦線のメンバー。

人物[編集]

広島県立尾道北高等学校卒業後、1972年4月に明治学院大学法学部に進学。明治学院大学在学中に黒川芳正宇賀神寿一と出会い、東アジア反日武装戦線に「さそり」班として参加し、連続企業爆破事件に関与。

1975年5月19日東アジア反日武装戦線の主要メンバー7人が逮捕されたのを契機に逃亡。直後に黒川が所持していた桐島の家の鍵からまだ警察が把握していなかった桐島の存在が判明し、桐島は警察に指名手配される。そのため、指名手配の身となって逃亡生活を送ることになった。

現在も生死も行方もわかっておらず、東アジア反日武装戦線のメンバーの中で一度も逮捕されていない唯一のメンバーである。起訴後に国外逃亡した大道寺あや子共犯の事件(三班が合同で起こした間組爆破事件など)に関しては刑事訴訟法254条2項の規定により共犯者の公判中という形で公訴時効が停止しているが、大道寺あや子と共犯ではない事件に関しては公訴時効が成立している。

情報[編集]

関連項目


https://ja.wikipedia.org/wiki/東アジア反日武装戦線

東アジア反日武装戦線(ひがしアジアはんにちぶそうせんせん)は、1970年代三菱重工爆破事件など連続企業爆破事件等の爆弾による武装闘争を実行した日本の武闘派左翼テロリストグループ。反日亡国論アイヌ革命論などを主張していたことから、捜査機関は、反日アナキズム思想を持つ「極左暴力集団」と当初から見なしていた[1]

来歴[編集]

法政大学Lクラス闘争委員会[編集]

1970年春、大道寺将司法政大学文学部史学科在学中に結成した「Lクラス闘争委員会」が源流である。「Lクラス」は大道寺が所属していた大学のクラスのことで、党派的にはノンセクト・ラジカルに分類される。大道寺が他学科の哲学科や国文科(現在の日本文学科)にも参加を呼びかけた結果、一時は百数十名にも膨れ上がった。この頃からのメンバーに片岡利明、協力者とされたA、Bらがいた。全共闘運動の終息とともにLクラス闘争委員会も自然消滅した。大道寺、片岡、Aも大学を中退した。

「研究会」[編集]

大道寺とLクラス闘争委員会の主要メンバーが中心となって、1970年8月に「研究会」を旗揚げした。この「研究会」では、「日本帝国主義」がアジアで行ってきた「悪行」について集中的に学習し、過激な反日思想を醸成させていった。その背景として同年7月7日に出された華僑青年闘争委員会新左翼各派に対する「決別宣言」から受けた衝撃が大きかった。当時の学習資料として朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』などの書籍が使われた。また、都市ゲリラ戦にも関心を持ち、レジスタンス運動キューバ革命などの資料などを学習していった。そして、反日運動のために武力闘争を展開しなければならないという考えに収斂されていったが、ゲリラ路線への参加を善しとせず数名が脱落する。そこで、同年11月には大道寺の北海道釧路湖陵高等学校の同級生で、大道寺が高校卒業後に参加していた同高卒業生らからなる社会主義研究会のメンバーであり、当時星薬科大生大道寺あや子が加わった。 1971年1月には、初の自家製爆弾の実験を行うようになる。

カンパニア闘争の開始[編集]

まず手始めに、大衆に訴えるカンパニア闘争の一環として、「日本帝国主義」の象徴となるものを爆破することになった。

これら三つの事件の後、本格的武装闘争に移行することになった。

東アジア反日武装戦線の誕生[編集]

1972年12月、「東アジア反日武装戦線」という名称が決まった。ただしこの名称は、全ての反日主義者が共同で使うべきものという認識から、「自分たちのグループ」を表す名称が別途必要であった。彼らは、孤高の存在というイメージから、グループ名を「狼」とした。

1973年は、本格的武装闘争に備えて、爆弾の開発や活動資金の貯蓄に努めた。また、自らの主張を世に訴え、闘争の意義や理念を共有する後続武闘派諸個人・諸グループが、反日武装闘争潮流に合流することを期して、小冊子『腹腹時計』の執筆、出版に着手した(翌年2月に刊行)。

1974年8月14日昭和天皇が乗車したお召し列車を、鉄橋もろとも爆破しようとした(虹作戦)。しかし、決行直前に人に見られたため未遂に終わった(ただし、当日通ったお召し列車は、彼らが爆弾を仕掛けようとした鉄橋(客車線)ではなく、貨物線の鉄橋を通行しており、もし決行されていたとしても暗殺は失敗した可能性が高い)。翌日韓国において、朝鮮総連メンバーの文世光が時の大統領朴正煕暗殺しようとした事件が発生していた(文世光事件)。この事件の犯人文世光は、黒ヘルと多少の繋がりがあるとされるプロレタリア軍団傘下の高校生組織「暴力革命高校生戦線」出身の朝鮮総連活動家であった。「狼」は、文世光に呼応するために新たな作戦に着手する。

同年8月30日三菱重工業東京本社ビルで爆弾を破裂させ、8名が死亡、376人が負傷した(三菱重工爆破事件)。これは「狼」の予測をはるかに上回る惨事であったが、これをきっかけに新たに「大地の牙」「さそり」のグループが合流し、翌年5月まで連続企業爆破事件を起こす。

一斉検挙[編集]

東アジア反日武装戦線」のメンバーとして最初に疑われたのは、当時アイヌ革命を唱えていた太田竜であった。まもなく、太田の潔白は証明されたが、公安警察は太田の思想的人脈のどこかにメンバーがいると推定、彼が関係する「現代思潮社」「レボルト社」に狙いを定めた結果、メンバーの斎藤和佐々木規夫が浮上し、二人を尾行していくうちに芋づる式にグループの他のメンバーが把握されていった。佐々木は偽装転向として創価学会に入信し、毎日法華経をあげるなど熱心な学会員を装ったものの、公安の目をそらすことはできなかった。

1975年5月19日、主要メンバー7名(大道寺夫婦・佐々木・益永・斎藤・浴田・黒川)と協力者の看護学生1名が逮捕された。斎藤和は逮捕直後に自殺した。また協力者の看護学生の姉及び別の協力者も自殺している。一斉逮捕を逃れた宇賀神寿一桐島聡全国指名手配となったが、1982年7月に宇賀神は逮捕された。

その後の東アジア反日武装戦線をめぐる動き[編集]

東京地方検察庁は1975年6月28日に起訴したが、日本赤軍によるクアラルンプール事件佐々木規夫釈放され、国外逃亡し、日本赤軍に合流。激しい獄中闘争を繰り広げるメンバーらと支援者らの妨害工作により裁判の開始は予定より大幅に遅れた[2][3]。ようやく12月25日より裁判が開始されたが、その後も公判は荒れ、遅々として進まず、そうこうするうちに再び日本赤軍によるダッカ事件が発生、大道寺あや子(将司の妻)と浴田由紀子(斎藤の内妻)が超法規的措置により釈放され、日本赤軍に合流した。

1979年には獄中のメンバー[4]によるとみられる「東アジア反日武装戦線KF部隊(準)」による「腹腹時計特別1号」が地下出版され、なおも反日武装闘争を主張していた。

大道寺将司・益永利明に対しては死刑黒川芳正無期懲役が確定。協力者とされる女性についても爆発物取締罰則違反幇助で懲役8年が確定した(1987年に出所)[5]。1982年7月、逃亡していた宇賀神寿一が逮捕され、懲役18年が確定(2003年に出所)。1995年3月24日に浴田由紀子がルーマニア潜伏中に身柄を拘束され、偽造有印私文書行使の容疑で国外退去処分となり日本へ向かう飛行機内で逮捕、裁判で懲役20年の判決が確定している。

連続企業爆破事件の犯人グループと直接の関係はないとされるが、1975年から1976年にかけて北海道を舞台に起きた一連の爆弾テロ事件(1975年7月19日北海道警察本部爆破事件、1976年3月2日北海道庁爆破事件など)にも「東アジア反日武装戦線」名義の犯行声明が出された。北海道庁爆破事件の被疑者として起訴された大森勝久(本人は犯行声明の思想に共感した上で犯行については無実を主張)には1983年札幌地裁で一審死刑判決、1994年に死刑が確定している(再審請求も2007年に却下)。また太田竜東アジア反日武装戦線に影響を受けたと見られる反日イデオロギーの持ち主が起こしたと見られる爆弾闘争が、1970年代後半に相次いだ。未検挙のものもあるが加藤三郎などが逮捕され有罪が確定している。

なお武装闘争思想の源泉となった太田竜であるが、彼自身は1974年に北海道静内町にあるシャクシャイン像の台座を傷つけた器物損壊事件しか起こしていない。太田の思想は1980年代以降は新左翼からエコロジスト、ついでナショナリストに転向し、さらに晩年は「人類爬虫類人によって支配されている」という陰謀説を唱えるようになった。

現在、佐々木規夫と大道寺あや子は国際指名手配、桐島聡は全国指名手配されている。桐島聡はさそり事件での公訴時効が成立。獄中にいるメンバーは、現在までに、再審請求を出したり、獄中から著書や論文を発表するなどして獄中闘争を行っている。

メンバー[編集]

資本家に苦しめられている被抑圧民衆を過去に絶滅したニホンオオカミになぞらえた。
大地の牙
国家も資本家もない理想の世界を目標とし、国家や資本家に立ち向かう大地の牙になぞらえた。
さそり
自らの小さな組織の猛毒で大きな建設資本を倒すサソリになぞらえた。

特徴[編集]

行動上[編集]

  • 内ゲバ的体質の否定
    元々クラスの仲間だったという関係からか、連合赤軍を始め、新左翼に特徴的だった「総括」といった、凄惨な死の粛清はなかった。家庭の都合や精神的に闘争に耐えられない者には、離脱を認めていた。
  • 公然・非公然部門の未分離
    昼間は普通の会社員や喫茶店店員として働き、夜間に活動するという方針を採った。これは爆弾教本「腹腹時計」にも示されている事項だが、あくまで「善良な市民」を装い、活動家だと察知されない生活を送ることによって、近所周辺の不信感を欺ける狙いがあった。そのため、職場での労働運動や居住地域の市民運動に参加するようなことはしなかった。爆弾製作は、身近にある工具や日用品で工作していたが、自宅アパートの床下を掘って、地下爆弾製造室を作っていたメンバーもいた。組織としての本拠地・アジトは持たず、メンバーの生活空間を攻撃拠点としていた。
  • 集権的機構の不存在
    「中央委員会」といった集権的組織は存在しなかった。三班はリーダー同士が連絡を取るだけで、メンバー同士の交流はなく、思想的立場も微妙に異なった。
  • 合法的資金源の確保
    赤軍派などがM作戦(金融機関強盗)など違法手段を用いて資金調達をしていたのに対し、メンバーは社会人として働いて給与を得て、給与の半分を活動資金に投じることで合法的に資金源を確保した。なお、東アジア反日武装戦線は資金は自らで獲得するのが鉄則としながらも、一方で手法と対象は充分検討した上での資金強奪を完全否定はしていない。
  • 綱領を持たない。

思想上[編集]

1960年代以後、マルクス・レーニン主義を掲げる日本の新左翼党派は武装闘争など急進主義的な活動を行ったが、その大多数は自らを前衛党と規定して、公然組織による宣伝活動や党員の獲得、労働組合活動なども行い、最終的には労働者や革命実現の主体となる党になる事を主張していた。これに対して東アジア反日武装戦線は、アイヌおよび朝鮮半島への日本による「侵略史」を学習するなかで、独自の「反日思想」を形成していった。アナキズム的影響の強いアイヌ革命論により、現在の日本帝国主義の破壊を主張し、その後の新社会への言及は少ない。

腹腹時計』では日本の一般大衆を「日帝本国人」と規定し、「反日闘争」に加担しない日本の一般大衆を「日帝」の成員として断罪した。また日本帝国主義と非和解的に闘う、真の革命的主体は山谷釜ヶ崎横浜寿町などの流動的下層労働者だとも述べた。公然組織を持たない純粋な地下秘密組織であり、市民社会からの広範な支持を受けることは、ほとんど考慮していなかった。

多数の死傷者を出すに至った三菱重工爆破事件後に出された犯行声明では、「爆死し、あるいは負傷した者は、無関係の一般市民ではない。植民者である。」と「爆破作戦」を正当化した。75年5月19日の「狼・さそり・大地の牙」メンバーの一斉逮捕後、各メンバーは裁判の場で、また自身の著作などで自己批判を行ない、被害者に深い謝罪を繰り返し表明した。

後年、「狼部隊」の実質的リーダーであった大道寺将司は、アイヌの支援者に宛てた手紙の中で三菱重工爆破事件について触れ、同月に実施されるはずだった「虹作戦」に頓挫し消尽と無力感を痛切に感じていた「狼」メンバーたちが、翌日に起きた朴正煕暗殺未遂事件の実行者であり韓国の獄中に収監された在日朝鮮人文世光に「事実行為」で連帯しており、一刻も早く呼応しなければならないとの焦りから、「虹作戦」で使用されなかった威力が甚大な鉄橋爆破用の爆弾を流用し、更には爆弾を建物ではなく歩道に設置するといった杜撰な作戦計画を実行してしまったと総括した[6]

自分たちさえよければ、ベトナム人民がアメリカ軍に殺されようが、韓国やフィリピンで日本の援助を受けた軍事独裁政権が人民を弾圧しようが“知ったことではない”という多くの日本人民に対する絶望感、不信感が抜き難くあったことから、ぼくたち自身をも含む日本人民の生命に対する軽視があったということだと思います。そしてぼくたち自身日本人民の一員であり、日本人民を否定しようが肯定しようが日本人民と共に歩んでいかなくてはならない、という最も基本的なことを忘れてしまっていたということでしょう。このような思想的な未熟さが杜撰な作戦計画にあったことを否定することは出来ません。 — 大道寺将司[7]

模倣犯などその後の動き[編集]

  • 犯行グループに対する控訴審判決が予定されていた1982年10月29日に、当時銀座にあった東京南部小包集中局(1990年廃止、現在の新東京郵便局の前身のひとつ)の集配所で小包に隠されていた時限式消火器爆弾が炸裂、取り扱っていた郵便車の運転手の左腕の肘から先が吹き飛ばされ、運転手助手も内臓破裂と全身打撲の重傷を負った[9]。この事件に対し警察は遺留物から「反日武装」の文字が書かれた紙片が発見されたことから、被告人らに同調する極左テロリストによる犯行として捜査した。しかし犯人は見つからないまま時効を迎えた。この事件を知った大道寺は自責の念に駆られ、激しい心労のために下血して病舎に移るという事態に至った[10]

  • https://en.wikipedia.org/wiki/East_Asia_Anti-Japan_Armed_Front
  • The East Asia Anti-Japan Armed Front (東アジア反日武装戦線 Higashi Ajia Hannichi Busō Sensen?) was a Japanese armed struggle organization that carried out bombings, including a series of them in the 1970s targeting corporations, such as one against the offices of Mitsubishi Heavy Industries in 1974 which killed eight. From the start investigators classified it as a far-left illegal group inspired by anti-Japanese anarchism.[1] Its declared ideology is Anti-Japaneseism.

    Origins and history[edit]

    L-Class Struggle Committee of Hosei University[edit]

    The roots of the East Asia Anti-Japan Armed Front lie in the L-Class Struggle Committee which was formed in the spring of 1970 by Masashi Daidoji enrolled in history courses at the department of humanities of Hosei University. The L-Class Struggle Committee's name comes from the university class that Daidoji was affiliated with, and factionally it was classified as "non-sect radical", a Japanese new left movement who refused to align with the communists or any other established group. Because he called upon the philosophy and literature students of other departments to participate, membership for a time swelled to more than 100 people, but along with the demise of the influential Zenkyoto, or All Campus Joint Struggle Committee, the L-Class Struggle Committee also naturally came to an end. Daidoji then dropped out of the university.

    The Research Group[edit]

    In August 1970 a "Research Group" was set up centering on Daidoji and the principal members of the L-Class Struggle Committee. This Group did intensive studies on the "evil deeds" of Japanese imperialism in Asia which fomented among them extreme anti-Japanese ideas. They used books such as Park Kyung Sik's Chōsenjin Kyōsei Renkō no Kiroku("Records on the Forced Recruitment of Koreans") as their then current study material.

    At the same time they also had an interest in urban guerrilla warfare and studied material on resistance movements.

    Before long these two topics converged into the idea that they had to build an armed anti-Japanese movement. In January 1971 they were among other things undertaking their first experiments with homemade bombs.

    Start of the "campaign struggle"[edit]

    To start off it was decided that they would blow up structures that were symbols of Japanese imperialism as part of the so-called "campaign struggle" making an appeal to the masses. They undertook three attacks, the bombing at the Koa Kannon temple on 12 December 1971, the bombing of the Soji-ji Ossuary on 6 April 1972, and the bombing of the Fusetsu no Gunzo and Institute of Northern Cultures on 23 October 1972. They considered these targets to be associated respectively with Japan’s participation in World War II, the Japanese colonization of Korea, and the subjugation of the Ainu of Hokkaido.

    After these three attacks, they decided to shift to full-blown terrorist bombings.

    Birth of the East Asia Anti-Japan Armed Front[edit]

    At the end of the year 1972, they decided on the name East Asia Anti-Japan Armed Front. However, they were aware that this was a name that could be used generically by any anti-Japanese group, and that they needed individual names for their own cells. Daidoji and his team settled on the name "Wolf" to express an image of proud independence.

    In 1973 they were preparing for their attacks, developing bombs and saving up a war chest to fund their operations. They constructed the bombs with the tools and basic necessities that they had on hand, but there were also members who dug under the floor of their own apartments and created underground bomb-making cellars. In addition, to bring their messages to the public they set about writing their own tract, Hara Hara Tokei, which they published in March 1974. On 14 August 1974 they tried to blow up the iron bridge over which Emperor Hirohito's royal train was travelling, which they code-named the "Rainbow Operation". However, the plot was aborted because a member was spotted shortly before it was to be put into action.

    Then the following day in South Korea an attempt on the life of President Park Chung-hee was made by Chongryon member Mun Segwang, a militant who hailed from the "Armed Front of High School Students for Violent Revolution", an organization affiliated with the Proletarian Army that in turn had a number of ties with anarchists. The EAAJAF's "wolf cell" was spurred into new terrorist bombings in sympathy with Mun Segwang.

    On 30 August 1974 they exploded a bomb at the Tokyo head office of Mitsubishi Heavy Industries, killing 8 and wounding 376 people. This terrorist attack caused destruction that far surpassed EAAJAF's expectations, and from there they launched serial bombings against Japanese corporations with the newly joined "scorpion cell" and "fangs of the Earth cell" until May of next year.

    Membership[edit]

    The "wolf cell" likened the oppressed masses who were being tormented by capitalists to the extinct Honshu wolf. Its members were Masashi Daidoji, his wife Ayako Daidoji, Toshiaki Kataoka, and Norio Sasaki.

    The "fangs of the Earth cell" made its goal an ideal world without nation-states or capitalists and likened itself to fangs rising from the Earth to oppose them. Its members were Nodoka Saito and his wife Yukiko Ekida.

    The "scorpion cell" likened itself to a scorpion that will topple big capital and big buildings with the deadly poison of its own small organization. Its members were Yoshimasa Kurokawa, Hisaichi Ugajin, and Satoshi Kirishima.

    Mass arrests[edit]

    At first Ryu Ota, who, like the EAAJAF, advocated an "Ainu revolution" at that time, was suspected as a member. Before long Ota's innocence was proven, but the police presumed that there were EAAJAF operatives somewhere in his ideological circle and, as a result of deciding to target the "Revolt Society" and the "Contemporary Thought Society" that Ota was involved with, the members Nodoka Saito and Norio Sasaki floated to the surface. While tailing these two, the other members of the group were deduced one after another. Sasaki joined Soka Gakkai and though he pretended to be an enthusiastic member doing things like giving the lotus sutra every day, he was not able to escape the eyes of the law.

    On 19 May 1975 seven key members, Masashi Daidoji and his wife Ayako, Saito, Ekida, Sasaki, Kataoka, and Kurokawa, were arrested as well as a nursing student who was considered a collaborator. Saito committed suicide soon after his arrest, and two members who escaped the roundup, Ugajin and Kirishima, were put on the national wanted list.

    Developments since the EAAJAF's demise[edit]

    On 4 August 1975 the Japanese Red Army took hostages at the US consulate in Kuala Lumpur and the Japanese government gave in to their demands to release Norio Sasaki among others. The trials of the remaining terrorists were started from 25 December 1975, but on 28 September 1977 a team of Japanese Red Army operatives including Sasaki hijacked Japan Airlines Flight 472 and two days later forced the release of Ayako Daidoji and Yukiko Ekida. They both joined the Japanese Red Army. In 1979 Hara Hara Tokei Special Issue #1 was published underground by a group called East Asia Anti-Japan Armed Front KF Unit, named after the codenames of two members who committed suicide. It was believed that the book, which reaffirmed the anti-Japanese armed struggle, was created by the still-jailed members because the address of the publisher was the Tokyo Detention House.

    Masashi Daidoji and Toshiaki Kataoka were given the death penalty, and Yoshimasa Kurokawa was given life imprisonment with hard labor. In July 1982, Hisaichi Ugajin was arrested and sentenced to 18 years imprisonment with hard labor. On 24 March 1995 Yukiko Ekida was detained while in hiding in Romania on suspicion of forging a private document. She was deported, arrested on the plane to Japan, and at trial was sentenced to 20 years imprisonment with hard labor. Today, Norio Sasaki and Ayako Daidoji are still wanted internationally. The statute of limitations on Satoshi Kirishima's crimes has elapsed.

    The imprisoned EAAJAF members, including Daidoji and Kataoka who are still on death row, are requesting new trials while undertaking a "struggle behind bars" which includes writing revolutionary essays and books from their prison cells.

    Distinguishing characteristics[edit]

    Perhaps because they were originally classmates, the EAAJAF was known for rejecting the "internal struggle", or "uchi-geba" in Japanese, which were sometimes violent self-criticism sessions popular within Japanese new left groups to expose those among their members who were not ideologically pure. The United Red Army murdered 14 of its 29 members in less than a year through such sessions. By contrast, there were no bloody purges in the EAAJAF and those members who had family commitments or were unable to mentally endure the struggle were permitted to leave.

    The EAAJAF did not have any centralized systems or leadership such as a central committee. The leaders of EAAJAF's three cells were in contact with one another and nothing more. There was no mingling among fellow members and even their ideological positions were different in subtle ways. EAAJAF members also did not disassociate from the public sphere. They adopted the policy of working by day as normal corporate employees or servers at cafes and preparing their operations by night. This policy was also set out in Hara Hara Tokei and the idea was that by not engaging in activism and pretending to be completely upstanding citizens they would not arouse the mistrust of those around them. Because of that, EAAJAF members did not participate in labor movements at their workplaces or social movements in their neighborhoods.

    Whereas other groups such as Red Army Faction of the Communist Alliance, a precursor to the Japanese Red Army, raised funds through illegal means including bank robberies, EAAJAF operatives received wages working at regular jobs and secured a legal source of revenue by investing half of their earnings into their operations. Even though the EAAJAF recognized self-funding as a core principle, on the other hand they declined to completely rule out robberies following a full examination of their targets and methods.

    Ideology[edit]

    Main article: Anti-Japaneseism

    As they studied the history of aggression by Japan against Korea and the Ainu, the EAAJAF acquired its personal "anti-Japanese ideology". They considered not only those in power, but also Japanese corporations and laborers as "perpetrators of imperialist aggression" and believed that they were acceptable targets for attack. Hara Hara Tokei refers to the Japanese people with a name of their own creation, Nittei Hongokujin, meaning "people born of Japanese imperialism", and condemns all ordinary citizens who did not support the "anti-Japanese struggle" as active members of the empire. In their claim of responsibility released after the 1974 bombing of Mitsubishi Heavy Industries they justified the indiscriminate terrorist attack by saying "People who were wounded or who died in the bombing are not uninvolved normal citizens. They are colonialists". Because of these dangerous and overly self-righteous ideas, even with the influence of the then new left the number of people who supported the EAAJAF was few. Even the imprisoned former leader of the EAAJAF "wolf cell", Masashi Daidoji, eventually apologized for his tactics.[2]

    Since the 1970s, most Japanese new left organizations had undertaken cautious "situational analyses" and based on those they acted in a planned manner to "start the revolution in Japan" from their own prepared blueprints, even if they didn't always directly confront their own gradual alienation from the Japanese masses. In contrast to this, organizations like the EAAJAF that advocated "anti-Japanese ideology", even if they did have the ambitious goal of "destroying Japan", did not have a concrete plan to achieve it. On the basis of their ideology, the EAAJAF undertook ad hoc terrorist attacks as "payback for the historical sins of Japanese imperialism", and they tended to not pay much heed to whether or not they had popular support, though they did argue that the day laborers of Sanya were true revolutionary warriors.

    Copycat crimes[edit]

    In the latter half of the 1970s there was a succession of terrorist bombings seen as having been caused by anti-Japanese ideologues influenced by the EAAJAF or Ryu Ota. There were instances where the terrorist attacks were caused by people who called themselves sympathizers of or successors to the EAAJAF.

    Although it was acknowledged that they had no direct relation to the imprisoned EAAJAF members, claims of responsibility in the name of the East Asia Anti-Japan Armed Front were put out in a series of terrorist bombings in Hokkaido between 1975 and 1976 including the bombing of a police station on 19 July 1975 that wounded four and the bombing of a government building on 2 March 1976 in which two were killed. Katsuhisa Omori was given the death sentence by the Sapporo District Court for the crimes in 1983, reaffirmed in 1994 and 2007, and is currently on death row, though he proclaims his innocence and admits only to sympathizing with the ideas contained within the claims of responsibility. Another sympathizer is Saburo Kato, who wounded 6 in his bombing of the Association of Shinto Shrines in Tokyo on 27 October 1977.

    A case occurred near the end of March 1985 in which threatening letters were placed in several large supermarkets near JNR's Yokohama Station that read "I will blow up this store with plastic explosives. —East Asia Anti-Japan Armed Front". In a series of incidents 40 such letters were placed and threatening phone calls were made including demands for money, but on March 30 when police were on the lookout they caught in the act a third-year male middle school student from Midori-ku Yokohama. He said that his motive was to extort money as in the Glico Morinaga case and that he also copied a tactic of the East Asia Anti-Japan Armed Front which he learned about at a library.[3]


    連続企業爆破事件(れんぞくきぎょうばくはじけん)とは東アジア反日武装戦線が旧財閥系企業、大手ゼネコン社屋・施設などに爆弾を設置し爆破した事件。1974年8月から1975年5月にかけて、東アジア反日武装戦線は日本国家をアジア侵略の元凶とみなし、アジア侵略に加担しているとされた企業に対し断続的に爆破事件を起こした。

    企業への爆破[編集]

    捜査と逮捕[編集]

    三菱重工爆破事件直後に警視庁丸の内警察署に設置された特別捜査本部は、公安部刑事部双方から警察官が投入され、異例の捜査体制となった。現場検証では時限装置と見られる時計や乾電池などの破片が発見された。これは現場に散乱していたガラス片40tの中[1]から見つけられた。また爆弾はペール缶[2]2個に詰められた塩素酸塩系の混合爆薬約55kgの爆弾だったことが判明した。なお、爆薬の入手先であるが当時禁止されて間もない塩素酸塩を使用した除草剤を転用したものであった。特別捜査本部は「爆弾はダイナマイト700本分に相当する」と発表した。特別捜査本部は当初からアナキズム思想の「極左暴力集団」による犯行とみていた。

    犯行グループが寄越した犯行声明文と1974年3月に地下出版された爆弾の製造法やゲリラ戦法などを記した教程本「腹腹時計」と用いられたタイプライターの字体が同一であることが判明、同じ機種で打たれていたことが確認された。そのため「腹腹時計」作成者と犯行グループは同一である可能性が高まった[3]。また犯行に使われたペール缶のうち1個は東京都内の工場で製造されたもので、わずか70個しか製造されておらず、すべて東京都内で販売されていたことが判明した[4]

    特別捜査本部は当初被疑者として、アイヌ人解放など「東アジア反日武装戦線」と革命理論が酷似しているとして、当時「新左翼評論家」であった太田竜1972年に発生したシャクシャイン像事件の容疑で拘束[5]したが、太田竜のアジトから押収された「腹腹時計」に疑問符が記入されていたり、「自分の理論をまねている者がいる」と周囲に不満をもらしていたことが判明し、太田の潔白が証明された[6]。しかし公安部は太田の思想的人脈のどこかにメンバーがいると推理し、後に芋づる式に東アジア反日武装戦線のグループ全体が把握されることになった。

    東アジア反日武装戦線は同年から1975年にかけ、連続企業爆破事件を起こしたが、この時には警視庁公安部によってマークされていた。事件当日、丸ノ内線茗荷谷駅周辺で爆発物らしき包みを持った不審な男を目撃したとの証言が特別捜査本部に寄せられていた。後にこれは偽情報であったことが判明したが、警視庁によるローラー作戦で、駅の近くにアナキズム集団「東京行動戦線」の関係者がいたことが判明した。この情報に対し警視庁公安部極左暴力犯罪取締本部は、この関係者を被疑者として追尾し尻尾を出すのを待っていた。また前述の太田竜が関係していた「現代思潮社」「レボルト社」に狙いを定めた結果、メンバーの齋藤和佐々木規夫が浮上し、この二人を追尾していくうちに、「東京行動戦線」関係者と結びつき、犯行グループと思われるメンバーが把握されていった。大成建設爆破事件ではメンバーのうち2人が不審な行動を取っていたことを把握したが、現場を押さえることができなかった。

    しかし1975年4月19日に発生したオリエンタルメタル社・韓産研爆破事件では、メンバー全員が外出し、互いに連絡を取り合っていたことが確認された。また彼らのアジトから出たゴミから犯行声明文の書き損じなども発見され、ついに正体をつかんだ[7]。当初は5月9日に一斉検挙する予定であったが、おりしもイギリス女王エリザベス2世が訪日しており、不測の事態を懸念し延期された。5月19日に主要メンバーである大道寺将司大道寺あや子、佐々木規夫、片岡利明(益永利明)、斎藤和、浴田由紀子黒川芳正と協力者1人が一斉に逮捕された。この時の逮捕容疑は韓国産業経済研究所爆破事件であった。

    その内、斎藤和は警視庁の取り調べ中に所持していた青酸カリで自殺した(同じく大道寺あや子も服毒自殺をしようとしたが、警察官に阻止された)。

    その後[編集]

    主要メンバー逮捕後に宇賀神寿一桐島聡全国指名手配されるも逃亡し、残党化する。その後、新左翼活動家の加藤三郎らが残党を名乗る新グループによって神社本庁爆破事件などの爆破事件が1977年11月まで続いた。

    裁判中、1975年8月に日本赤軍によるクアラルンプール事件で佐々木規夫が超法規的措置で釈放し逃亡。また1977年日本赤軍によるダッカ日航機ハイジャック事件で大道寺あや子と浴田由紀子が超法規的措置釈放され、国外逃亡した。逃亡した3人は日本赤軍に合流した。

    1982年7月に逃亡していた宇賀神寿一が逮捕される。

    その後、裁判では1987年3月24日に大道寺将司と益永利明への死刑、黒川芳正に無期懲役、協力者には懲役8年が確定した。1990年に宇賀神寿一の懲役18年が確定した(2003年6月出所)。1995年に逃亡していた浴田由紀子がルーマニアで潜伏中に身柄を拘束され日本に移送となり、2004年5月に懲役20年が確定した。

    現在、益永利明は確定死刑囚として東京拘置所に、黒川芳正は宮城刑務所に、浴田由紀子は栃木刑務所にそれぞれ収監されている。大道寺将司は2017年5月24日に多発性骨髄腫のため東京拘置所で病死した。

    現在、国外逃亡した大道寺あや子と佐々木規夫は国際指名手配桐島聡は全国指名手配されている。桐島聡は大道寺あや子と共犯でない事件に関して公訴時効が成立。

    犯人[編集]

    連続企業爆破事件
    人物






























    鹿

































    身柄拘束日[8]判決
    大道寺将司     1975年5月19日死刑
    益永利明     1975年5月19日死刑
    大道寺あや子     国際指名手配中
    佐々木規夫     国際指名手配中
    斎藤和    自殺
    浴田由紀子    1995年3月20日懲役20年
    黒川芳正     1975年5月19日無期懲役
    宇賀神寿一     1982年7月13日懲役18年
    桐島聡     全国指名手配中


三菱重工爆破事件(みつびしじゅうこうばくはじけん)は、1974年8月30日日本東京都千代田区丸の内で発生した、東アジア反日武装戦線「狼」による無差別爆弾テロ事件で、連続企業爆破事件の一つである。東アジア反日武装戦線の呼称はダイヤモンド作戦虹作戦で使用する予定であった爆弾を流用した。

事件の背景[編集]

東アジア反日武装戦線第二次世界大戦以前の日本を「完全な悪」と捉えており、大東亜戦争太平洋戦争)を「侵略戦争」として憎んでいた。そのような思想を元に、戦前戦中に日本の重工業を支え、戦後も日本を代表する重工メーカーであり、防衛産業を手掛け、またアジアやヨーロッパ、アメリカなどに海外進出を行っていた三菱重工業は、犯行時点においても「帝国主義(を支援する企業)」であると断定。グループの政治思想に基づき「経済的にアジア侵略している」として無差別爆破テロのターゲットとするに至った。

東アジア反日武装戦線は、1974年8月14日決行予定だった昭和天皇暗殺作戦「虹作戦」に失敗していた。しかし、翌8月15日在日韓国人朝鮮総連系団体活動家の文世光朴正煕大統領暗殺を企てた文世光事件を起こした。彼らは虹作戦を断念したことを不甲斐なく感じ、文世光の「闘争に呼応するため」として新たな爆弾テロを進めた。

当初9月1日の決行を予定していた。同グループが引き起こした風雪の群像・北方文化研究施設爆破事件では、シャクシャインの戦いを起こしたアイヌ民族の首長シャクシャイン松前藩によって殺害された10月23日が選ばれていた。同様に、「9月1日に発生した関東大震災朝鮮人虐殺があった日だから選ぼうとした」という[1]。しかし、同年の9月1日が日曜日従業員が出勤しておらず、8月31日も丸の内の企業の多くが週休二日で休業していることから、8月30日の金曜日に繰り上げたのだという[2]

概要[編集]

1974年8月30日、「狼」の実行犯4人は、午後0時25分[3]ごろ三菱重工業東京本社ビル(現:丸の内二丁目ビル)1階出入り口のフラワーポット脇に時限爆弾を仕掛けた。これは三菱重工業東京本社ビルと道を隔てて反対側にある三菱電機ビル(現:丸の内仲通りビル)の両方を破壊する意図からであった[3]

実行犯4人が現場から立ち去ったあと午後0時45分[3][4]に時限爆弾が炸裂した。この爆発の衝撃で1階部分が破壊され玄関ロビーは大破、建物内にいた社員が殺傷されたほか、表通りにも破片が降り注ぎ多数の通行人が巻き込まれ死傷した。三菱重工業東京本社ビルの窓は9階まで全て割れ、道を隔てて反対側にある三菱電機ビルや、丸ビルなど周囲のビルも窓ガラスが割れた。また、表の道路に停車していた車両も破壊され、街路樹の葉も吹き飛ばされた。

この爆風と飛び散ったガラス片等により、三菱重工とは関係のない通行人を含む死者8人(即死5人、病院収容後に死亡3人)、負傷376人との戦後日本最悪の爆弾テロ事件となった。この被害は、オウム真理教による松本サリン事件1994年)と地下鉄サリン事件1995年)迄は最大規模であった。この時の爆発音は新宿でも聞こえたという[5]。このように甚大な被害が出たのは後述のように爆発物の質量が大きかったこともあるが、通常放射状に拡散する爆風がビルの谷間に阻まれ、ビルの表面を吹き上げ爆風の衝撃波で窓ガラスを破壊したほか、ビル内に入った衝撃波も階段などを伝わり窓から噴出し、ビル内部をも破壊したためである。また爆心には直径30センチ、深さ10センチの穴が開いていた[5]。この爆発の威力は陸上自衛隊によれば、敵軍侵攻を食い止めるために用いる道路破壊用20ポンド爆弾よりも強力だとしていた[6]

東アジア反日武装戦線の予想を超えた被害が出たのは、列車爆破用の爆弾を転用したためと、爆破予告が有効とならなかったためである。犯行グループは守衛室へ8分前に爆破予告電話をかけたが、最初は「悪戯電話」として切られ、再度かけ直した時もすぐ切られた。もう一度かけ電話交換手が爆破予告を最後まで聞いたのが4分前であったが、避難処置は取られなかった[7]。電話交換手は、本を読むような一本調子の無表情な口調で具体的な事をいわなかったので爆破予告を冗談とは思ったが、念のため庶務課長に電話で報告した上で8階の庶務課長室へ向うためにエレベーターに乗った時点で爆発したという[6]

このように大企業の社内の連絡体制に対する認識不足が原因であったが、犯行グループがその後引き起こした企業爆破では爆発の威力を抑えて爆破時間帯を深夜などとし、十分な予告時間をとって予告電話するようにしたという。また予想を超えた多数の一般社員の死傷者の位置づけをめぐり内部で議論となった。彼らが最初に作成した犯行声明文は破棄され、最終的な犯行声明は自己弁護とイデオロギー色の強いものとなり、9月23日付となった。

8人の死者[編集]

  • 51歳の三菱重工主任 - 病院収容後翌日死亡
  • 41歳のデザイン会社役員 - 脱血ショックで病院収容後に死亡
  • 38歳のメーカー所長代理 - 静岡県から商談のため訪問し、地下食堂から出たところ巻き込まれ即死
  • 23歳の会計士事務所事務員 - 脳損傷と全身打撲で病院収容後死亡
  • 37歳の三菱信託銀行課長 - 即死
  • 28歳の船舶エンジニア - 即死
  • 49歳の鉱業会社社員 - 即死
  • 50歳の三菱重工社員 - 即死

犯行声明(全文)[編集]

一九七四年八月三〇日三菱爆破=ダイヤモンド作戦を決行したのは、東アジア反日武装戦線“狼”である。
三菱は、旧植民地主義時代から現在に至るまで、一貫して日帝中枢として機能し、商売の仮面の陰で死肉をくらう日帝の大黒柱である。
今回のダイヤモンド作戦は、三菱をボスとする日帝の侵略企業・植民者に対する攻撃である。“狼”の爆弾に依り、爆死し、あるいは負傷した人間は、『同じ労働者』でも『無関係の一般市民』でもない。彼らは、日帝中枢に寄生し、植民地主義に参画し、植民地人民の血で肥え太る植民者である。
“狼”は、日帝中枢地区を間断なき戦場と化す。戦死を恐れぬ日帝寄生虫以外は速やかに同地区より撤退せよ。
“狼”は、日帝本国内、及び世界の反日帝闘争に起ち上がっている人民に依拠し、日帝の政治・経済の中枢部を徐々に侵食し、破壊する。また『新大東亜共栄圏』に向かって再び策動する帝国主義者植民地主義者を処刑する。
最後に三菱をボスとする日帝の侵略企業・植民者に警告する。
海外での活動を全て停止せよ。海外資産を整理し、『発展途上国』に於ける資産は全て放棄せよ。
この警告に従うことが、これ以上に戦死者を増やさぬ唯一の道である。 — 9月23日東アジア反日武装戦線“狼”情報部

逮捕と裁判[編集]

視察対象とされた一名に対する捜査をきっかけに、1975年5月19日にメンバーが一斉に逮捕された。この時の逮捕容疑は韓国産業経済研究所爆破事件であった。

東京地方検察庁は1975年6月28日起訴した。

佐々木規夫大道寺あや子日本赤軍によるクアラルンプール事件ダッカ日航機ハイジャック事件によって超法規的措置釈放逃亡するも、リーダー格の男2人(大道寺将司益永利明)の裁判は続行となった。

裁判で被告人らは「爆弾の破壊力が予想できなかった。また予告電話をかけており、殺意は無かった」と殺人罪無罪を主張した。これに対し検察庁は捜査段階で「死傷者が出てもやむを得ない」と供述していたことや、客観的に見ても白昼人通りの多い場所に置いた上に、予告電話をしても爆弾の種類や場所を明示しておらず、短時間で建物内や通りにいる人々を避難ないし爆弾の無力化は不可能だとして[8]、「未必の故意」があるのは明らかであるとし、殺人罪は成立するとした。

裁判所は「天皇殺害目的の爆弾を転用したことは当然三菱重工爆破事件でも殺意が適用される」「爆破数分前の電話は予告とはいえない」「爆破予告が有効にならなかった場合には時限爆弾を止める手段を講じておらず、爆破させる意思に変わりはない」などとして、1987年3月24日最高裁において、リーダー格の男2人(大道寺将司、益永利明)の死刑判決が確定した。戦後の新左翼事件における死刑判決確定は初めてで、公安事件における死刑判決確定は三鷹事件以来であった。

現在、大道寺も益永も確定死刑囚として東京拘置所収監されている。国外逃亡をしていた浴田由紀子の連続企業爆破事件の裁判が再開された時は、死刑が確定していた大道寺と益永を証人とするために拘置所で出張尋問を受けた(弁護人は大道寺と益永を法廷に出廷させることを要求したが、死刑囚の逃亡懸念から裁判所に退けられた)。なお、判決確定後20年経過しても大道寺と益永の死刑が執行されないのは、「事実誤認」を主張し、再審請求という司法手段を講じている[9]こともあるが、法務省関係者によれば、佐々木ら共犯が国外逃亡しているのも理由の一つだという[10]

この事件がきっかけとなって、犯罪被害者補償制度の確立を求める声が高まり、1980年に犯罪被害者等給付金の支給等に関する法律が成立した。

佐々木規夫と大道寺あや子の裁判は公判停止となり、現在も国際指名手配となっている。

その他[編集]

  • 事件発生当時は、丸の内爆弾事件といった表現もあった[5]。また当時は騒乱やテロを繰り返し多数の死傷者を出していた北アイルランド紛争を抱えていたイギリスでも大きく報道されたという[5]
  • 事件当日は郵政省(現在の日本郵便)が特殊切手の自然保護シリーズ「アマミノクロウサギ切手の発行初日だった。そのため至近の東京中央郵便局に多くの切手収集家が初日カバー作成のために詰めていたが、爆発の瞬間振動が建物を襲い4階食堂の窓が割れたという。また、当時切手ブームであったため、三菱社員の中には昼休憩を利用し切手を買いに来ていた者もいたという[11]
  • 産経新聞社会部は、一連の連続企業爆破事件の犯行グループ逮捕をスクープしたとして、日本新聞協会賞と第23回菊池寛賞を授与されている[12]。この経緯については、当時の記者・福井惇による「狼・さそり・大地の牙 連続企業爆破35年目の真実」(文藝春秋刊)として出版されている。
  • 1970年代の極左暴力集団の中には「東アジア反日武装戦線」と同じく爆発物によるテロを実行したものが多かったが、なかには「爆弾マニア」による模倣犯も多く出ており、逮捕者の中には悪戯のためにコインロッカーを爆破した中学生がいた。また過激派の中には爆発物による事故を起こしたものもおり、1975年9月4日深夜に横須賀市のアパートで消火器爆弾製造中に爆発事故を起こしアパートが全壊、中核派メンバーの男女3人のほか、住民2人の計5人が死亡、8人が重軽傷を負う横須賀緑荘誤爆事件が発生している。
  • 犯行グループに対する控訴審判決が予定されていた1982年10月29日に、当時銀座にあった東京南部小包集中局(1990年廃止、現在の新東京郵便局の前身のひとつ)の集配所で小包に隠されていた時限式消火器爆弾が炸裂、取り扱っていた郵便車の運転手の左腕の肘から先が吹き飛ばされ、運転手助手も内臓破裂と全身打撲の重傷を負った[13]。この事件に対し警察は遺留物から「反日武装」の文字が書かれた紙片が発見されたことから、被告人らに同調する極左テロリストによる犯行として捜査した。しかし小包が神田南神保町郵便局から差し出され、爆弾が毎日新聞千葉地方面の紙面で包装されていたことが判明したが、犯人を特定できず迷宮入りしている。
  • スーパージャンプ1989年10月号に掲載された平松伸二の劇画「マーダーライセンス牙」14話で、当該事件をモデルにしたエピソードが用いられたことがある。これは企業爆破事件を引き起こした「反日武闘隊"金狼"」のメンバー2人に死刑が確定したが、その2人を奪還するために残党が人質事件を起こし当局が屈服し釈放された。合流した2人の死刑囚のうち粗暴で冷酷な方が無抵抗の人質を機関銃で射殺した。その後、主人公の忍者の活躍によって人質犯は殲滅され、死刑囚も獄に戻され東京拘置所で死刑が執行されたという物語であった。しかし極悪非道な死刑囚という描写や死刑廃止グループに偽装したテロリストを描き、死刑存廃問題に関して死刑の存続を擁護する立場から主張を行ったため、福岡市にある死刑廃止を主張する市民団体から抗議を受けた。このため、12月号で発行元の集英社が謝罪文を掲載する事態になった[14]。そのため、このエピソードは単行本未収録になったが、後に短編集「地上最強の男」に収録されている。
  • 集英社の「学習漫画日本の歴史」20巻で、典子(のりこ)という女性がこの事件で負傷、主人公格の鈴木憲一に救助される。これが縁で憲一と典子は後に結婚。
  • アイヌ革命論など一連の連続爆破という「武装闘争」を誘発した太田龍は、1980年代以降はエコロジストを経てナショナリスト思想に転向、その特徴はユダヤ陰謀論国粋主義、伝統主義、家畜制度の全廃であり、靖国神社に参拝していた。同様に前述の「東アジア反日武装戦線」名義のテロ実行犯とされる大森死刑囚も極左から、反共主義に転向し、保守主義者の立場から日本の核武装支持や、ロシア中国を「全体主義国家」と主張するようになっている。また保守論者の西村幸祐が編集したムック本に寄稿[15]したことがある。
  • この事件では爆破によって飛び散ったガラス片が人体に被害を与えたことが注目され、この事件以降はガラスが割れて飛び散っても人が守られるような対策が進められた。
  • 一連の企業爆破事件の後、オフィスビルの入り口にガードマンが常駐するようになった[16]
  • この事件の捜査関係者らは一斉逮捕の日にちなんで「五・一九会」という会を結成し、現在も親睦をはかっている[17]

脚注